我々は、安全神話をみているのだろうか?
世の中、安全・安心という言葉が、さまざまなところから聞こえてきますが、本当に安全や安心なんてあるのだろうか?
はっきり言おう!
完全な、安心や安全は存在しないという事実を知っていたほうが良いのではないかと、最近、思うようになってきた。
科学を突き詰めていくと、人間の存在自体が、とても、ちっぽけなものだと理解できるようになる。
地球のダイナミックな変化や、宇宙からくる自然の脅威に人間は、何もできないだろうと思われる。
さらに、人間の欲求によって、自分たちの住んでいる地球を自らの手で、住むことが難しい環境にしてしまうのに、何が安全だろうかと、考えてしまいます。
危険というリスクを回避しているだけ
現代、叫ばれている安全とは、
単に、ある条件下で、危険というリスクを下げただけ、と考えるのが普通だろうと思います。
さらに、長期間の経験からリスクを回避する術を会得することで、安心感が高まって、安全と感じている、だけかもしれません。
そうです、危険というリスクを回避しているのが、安全と思っているだけだろうと考えます。
未知のものは危険
我々人間は、他の動物と同じで、未知のものには、興味や恐怖を感じます。
これは感覚的に、安心・安全ではないということです。
もともと、安心なモノなどないのですから、おかしくはないと思いますが、未知のものに対して、経験したことがないから、どうやってリスクを回避すれば良いのかわからないだけかもしれません。
我々人間は、食物を切るのに包丁といる刃物という道具を使用します。
初めて包丁を使用する時には、人を傷つけないか心配します。
便利だけど、使い方を間違えると、危険だということです。
経験で、危険なリスクを回避しているだけで、少しの油断で、さまざまな人ものを傷つけてしまうけれど、安全に近い状態でに使うことは、可能かもしれません。
このように考えると
破壊力の大きなモノは、危険を承知でリスクを回避して使用しなければなりません。
火薬は、ダイナマイトでトンネルや道路を作るのに役立ちました。
原子力は、原子力発電所として、二酸化炭素を排出しないエネルギーとして研究されリスクを下げる努力をしてきましたが、自然災害や人災には対応しきれずに、現在、人間からの信頼は低下している状態で、安全とは言えなくなっています。
さらに、原子力は、原子爆弾の原料を作ることにもなるので、人間の感情からすると、リスクを回避するのは難しいのかもしれません。
飛行機に乗ったり、船に乗ったり、自動車や自転車だって、ルールを守るだけでは、リスクを回避しても、安全だとは言えないと考えます。
安全とは、リスクがある程度回避できて、人間の感情のなかで対応できている状態を、勝手に思っているだけということになります。
自然食品は安全か
さまざまな広告で、「自然は安全」という、誤った認識があると思います。
人間は、自然と戦(競い合う)って子孫を反映させてきました。
自然に生えている、草木、野菜、木の実、根菜など、さまざまな植物が生えています。
しかし、自然に生えていますが、全て食べられるわけではありません。
人間が、たまたま克服できた物質ならば、食べても問題はないけれど、毒になるものもたくさんあることを知っていたほうが良いと思います。
はっきり言って、「自然ほど危ないものはない」と思ったほうが長生きできると思いますよ。
この世に安全なモノはない
政治家は、安心安全を考えて政策を考えて実行していますとか、いいますが、そんなものはありません。
原子力発電所は、安全です。
そんなこと、あるわけはないですよね。
横断歩道と同じだと思います。
安全ではないが、リスクを回避できる方法を見つけて、人々を信用させて、疑似的に安全ですと言えば、原子力発電は安全ですと言えたのかもしれません。
mRNAワクチンは安全です。
と言われても、新しいワクチンなので、普通の人には不安です。
いろんな人が、安全性を、どんなに語ろうが、一部の人には不安でしょうがありません。
実際に、ワクチンを接種して、いろんな症状を発生させた方もおられるでしょう。
これは、どんな薬剤でも同じだと思います。
リスクを回避する方法、経験があれば、共有して対処できるかもしれません。
でも、よく覚えておいてください。
世の中に安全なものは何一つない!